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第3節 全南ドラゴンズ 対 川崎フロンターレ


(光陽:大韓民国)

最終日:飛行機に乗り遅れる

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第1節 アレマ・マラン-川崎フロンターレ

第2節 川崎フロンターレ-バンコク・ユニバーシティ

第3節 全南ドラゴンズ-川崎フロンターレ
第1日:韓国へ
第1日:全南ドラゴンズ-川崎フロンターレ
第一日:光陽の夜
最終日:飛行機に乗り遅れる

第4節 川崎フロンターレ-全南ドラゴンズ

第5節 川崎フロンターレ-アレマ・マラン

第6節 バンコク・ユニバーシティ-川崎フロンターレ

準々決勝 セパハン-川崎フロンターレ

準々決勝 川崎フロンターレ-セパハン

ACL総括
私の携帯電話はドコモなので外国では使えない。しかし目覚まし時計として重宝しているので海外でも持って行くことにしている。午前6時。いつもの時間にアラームが鳴る。今日は会社に行く必要はないのでスイッチを止め、もう一度寝る。午前9時、携帯電話の着信音が鳴り響き、死ぬほどびっくりする。なんで韓国で携帯が鳴るんだ?ひょっとしてこの着信に出ると死んでしまうんじゃないかと不安になったが出てみると仕事関係者からだった。ドコモは今月1日から韓国でもローミングサービスを開始したそうで、韓国でも自分の携帯電話が使えるとのことだった。


 本当にびっくりしたのでこれ以上寝付けなくなり、シャワーを浴びてチェックアウトする。今日は帰国する日だが、出発はソウル金浦空港を20時30分なのでまだ時間がある。私は光州に行くことにした。光州は光陽からバスで2時間弱の所である。光陽から光州までのバスは1時間に1本出ているが、幸い待たずに発車した。韓国の南部はまだまだ開発中だが鉄道も道路も改良工事の真っ最中であちこちに作りかけの道路や鉄橋がある。あと2年もすればこの辺は完全に変わってしまうだろう。光州へはすぐに着いた。光州は韓国南部の中心都市で、金大中元大統領の故郷でもある。


 光州に来た目的は二つある。ひとつはKリーグチーム尚武のホームスタジアム、光州ワールドカップスタジアム(別名フース・ヒディングスタジアム)を見学すること。もう一つはビビンパブ(日本で言うビビンバ)を食べることである。ビビンパブは全州が本場であるが、何年か前に光州に来たときに食べたビビンパブのうまさが脳裏に焼き付いていた。もう一度食べたいと思っていた。


 前回来たときよりもバスターミナルは改装されてえらく立派になっていたが、大体場所はわかっている。建物や道路は変わっていても地形は変わらないので位置関係の把握は難しくない。10分ほど歩くと食堂はすぐに見つかった。


 飯はうまかった。ただ、前回食べたときほどの感動はなかった。味が落ちたのではなく、過去の思い出が美化され続けただけなのかもしれない。前回来たのはいつだったか・・もう10年くらい前の話である。


 今度は光州ワールドカップスタジアムへ向かう。流しのタクシーを見つけ、「ワールドカップキョンギジャン」と告げ、車を走らす。スタジアムは山を越えたところにあり、できたときは不便なところに・・等と言われていたそうだが現在はかなり開けている。スタジアムはすぐに見つかった。スタジアムは巨大なショッピングセンターを併設していてかなりにぎわっている。私はうら寂しいビッグスワンやビッグアイの周辺を思い出してしまった。


 正面入口は開きっぱなしになっていて、スタンドに直結している。スタンドでは清掃員が掃除をしている。監督者のような男性を見つけたので、挨拶し、見学しても良いか訪ねてみる。幸い快く応じてくれたのでありがた中に入った。 



 
光州のスタジアムは神戸ウィングを陸上競技場にしました、と言った感じで新しい競技場にしてはイマイチなのだが、それでも手入れはきちんとしていた。日韓ワールドカップ終了後、韓国の競技場はかなり汚くなっていると言われているが、私が見た限りそのようなことはなかった。
 スタジアムの裏がショッピングモールになっているのでタクシーはすぐに捕まった。あとは光州バスターミナルに戻り、ソウル行きのバスに乗るだけであるが、少し状況がおかしくなってきた。


 ビビンパブを食べたあたりから少しずつ気になっていたのだが、腹が痛くなってきた。最初は何とか我慢できてきたが、タクシーに乗ったあたりからかなり酷くなってきた。このままバスに乗るとかなりまずい。私は運転手に行き先を変更してもらった。「ホスピタル・・・ビョウイン・・」運転手は最初は理解できなかったようだが私の表情を見て察してくれたのか、進路を変更してくれた。目の前に赤十字のマークが付いているビルが見えたので意思は通じているようだった。運転手に少しチップを含ませて礼を言って降りた。


 受付に症状を告げるが、彼女は英語が通じない。しかし運のいいことに、この病院には日本人職員がいた。日本と韓国の病院同士が相互に職員を派遣して勉強させているらしい。私は彼女に連れられて診察室に入ることができた。症状、病歴やアレルギーなどもうまく伝わったのはラッキーだった。医者は疲労から来る食あたりだろうと判断し、ブドウ糖の補給をしてくれることにした。大きな注射を一本差し、腹痛と下痢止の薬も合わせてもらう。ベッドも貸してもらい休養することができた。


 前回のインドネシアもそうだけれど、最終日でダウンすることが多くなってきている。体が若い頃のようには行かなくなっているいい証拠なのかもしれない。認めたくはないが、だんだん年を取ってきているのだろう。意識は20年前から全然変わっていないが。


 1時間ばかり寝ていると体調も良くなった。治療費にいくらかかるのか少し不安になったが、なんと無料でよい、とのこと。私は海外旅行保険から払うつもりでいたが、ありがたく礼を言って病院を出た。


 復活したのはよいのだが、問題はこの後である。私は今日の金浦空港発20時30分の飛行機で羽田に帰らねばならない。既に午後2時である。急いでバスターミナルに戻り、ソウル行きのバスに飛び乗った。かなりぎりぎりになるが、おそらく19時30分前には着くと思われる。


 バスは私の期待に応えるかのように高速道路を疾走していく。何とか着くかなあ・・・・・そう期待していたのだが、それは甘かった。ソウルの南40キロ、水原のあたりで渋滞に捕まった。夕方だからやむを得まい。この渋滞を抜ければ・・・・私は祈ったがどうにもならない。少し進んでは止まり、ずっと止まっては少し進んだ。ソウルまで残り30キロ、離陸まであと2時間となったところで私はすべてをあきらめ、事後策の検討に入った。


 19時30分、バスはソウル南の江南(カンナム)バスターミナルに着いた。みんなほっとしてバスを降りる。私はショボーンとして地下鉄に乗る。あと30分早く着けば金浦に行き、なんとか交渉できたかもしれなかったがもう無理だ。私はソウル市内のゲストハウスに電話を入れ、ベッドを予約した。


 私はここ数年、毎年海外に出ているが、さすがに帰りの飛行機に乗り遅れたのは初めてである。さすがにショックが大きかった。ヨーロッパ便に乗り遅れるよりはずっとマシと逆に考えたりもするが、もうどうでも良かった。通勤客と一緒に地下鉄で東大門に移動し、近くのゲストハウスにチェックインした。体調のこともあるが、さすがに疲れた。


あれこれ考えても仕方がないので淡々と善後策をとる。このゲストハウスにはインターネット端末があった。私はJALのホームページにアクセスし、翌日の金浦発羽田行きの便を予約した。正規運賃で39万ウォン(約5万円)は痛いがやむを得まい。ついでにWebメールで会社に帰国が伸びる旨メールを出す。月曜日の出社を思うと頭が痛い。明日は金曜日なのでもう少し韓国に滞在し、日曜日に帰ると言う手もあったがそういう気持ちになれなかった。一通り作業が終了すると、私は明洞に行った。もう夜の10時を回っているが、韓国の原宿とも言えるこの町は中高校生で一杯だった。ファーストフードの店を見つけ、適当に食事をし、さっさと寝た。


 翌朝、朝食を済ませて金浦空港に向かう。飛行機は12時30分発なのでまだ余裕があるが、早いところ帰りたかった。1時間ほどで空港に着く。出発まであと3時間ほどあるが、チェックインカウンターは空いていた。さっさとチェックインをして中で松。ソウルの国際線はみんな仁川空港に移っていったのでターミナルは結構寂しい。適当に待っていると搭乗手続きが開始された。搭乗してしまえば羽田は近い。金浦から羽田まではわずか2時間。掘っ立て小屋のような羽田空港国際ターミナルに着く。京浜急行で京急蒲田へ。そして徒歩でJR蒲田駅まで歩く。蒲田は私の職場がある。京浜東北線の車窓から私の事務所が見える。本当はあそこで仕事をしているはずなのに・・・。勝って帰ってきたけれど、複雑な気分だった。

(おわり)
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